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ここでは甲冑について良くご質問を頂く内容や、その他の様々な項目について私の個人的なメモ書き(基本的には過去の掲示板の内容)を載せています。

過去ログを参照して頂くのもなかなか大変ですのでこちらに別頁を設けさせて頂き、覚え書として抜粋した項目について整理してあります。

なお、内容はあくまでも私個人の見解ですのでご了承願います。

許可なく画像・文章を転載、複製、引用、加工する事は禁止します。



● 初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の兜

● 直江兼続(なおえかねつぐ)と「愛」前立

● 箙(えびら)からの矢の抜き方

● 武田信玄(たけだしんげん)と「諏訪法性(すわほっしょう)」

● 喉輪(のどわ)の着け方

● 円に心

● 如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)

● 猿面兜(えんめんかぶと)

● 半馬面(はんばめん)

● 犀頭兜(さいがしらかぶと)

● 金花猫塗唐冠兜(きんかびょうぬりとうかんむりかぶと)





● 初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の兜

以前はその存在自体が疑問視されていた山本菅助(やまもとかんすけ)ですが、武田信玄(たけだしんげん)が信濃(しなの=長野県)の豪族・市河氏に送った手紙にその名前が登場するのをはじめとして、真下家所蔵文書の中の武田信玄(たけだしんげん)からの感状(かんじょう:戦での働きを褒める書状)や小山田虎満(おやまだとらみつ)と思われる人物の病気を見舞うよう指示する文書などが発見され、それなりの身分の武将として武田信玄(たけだしんげん)に仕えていたことがわかってきたようです。
また初代・山本菅助(やまもとかんすけ)が川中島の合戦で戦死した後も、山本家の当主は代々「山本菅助」を名乗っていたそうです。

初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の兜と言うと、桃形兜に水牛脇立を思い出す方もいらっしゃるかもしれませんが、どうもこれは井上靖氏原作の映画「風林火山」で使われたのが始まりのようです。

私がこれまで目にした「伝:山本菅助」の兜は4点あります。

1点目は肉色塗にされた三枚張の頭形兜で、正面やや上方に付眉庇を備え、打眉見上皺打出し兜鉢の両側には耳を付けた変わり兜目下頬付き)です。

2点目は長野県立博物館に展示されていた投頭巾形兜で、頭巾には縦筋(たてすじ)が何本も入っていました。

3点目は2010年に某オークションにて「山本菅助所用 鮑貝形(あわびがいなり)兜」として紹介された兜で、文字通り鮑貝(あわびがい)の打出し二枚を左右で貼り合わせた兜で、それぞれの正面に金象眼梵字、後方には猪目と雲、眉庇に雲と二匹の龍、に雲をそれぞれ銀象眼してあります。

いずれの兜も「山本菅助の兜」とされていましたが、その根拠は不明です。

4点目は山本家子孫の家に伝わったとされる具足の兜で、こちらは越中頭形兜で、眉庇金泥で「山本菅助晴貞(やまもとかんすけはるさだ)」と名前が書かれています。
しかしながら「晴貞(はるさだ)」と言う人物が誰だか良く分かっていないのと、具足が完成された当世具足の様式であることから、時代的に見て初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の物である可能性は低いのではないかと考えられています。

実際にどのような兜をかぶっていたのかは、主君:武田信玄(たけだしんげん)の「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜と同じく謎のまま、と言ったところでしょうか。

(初稿2004年9月9日、2010年12月14日・2013年10月10日加筆修正)





● 直江兼続(なおえかねつぐ)と「愛」前立

愛の前立前立で有名な、直江兼続(なおえかねつぐ)のものとされる兜ですが、この「愛」の意味についてよくご質問を頂きますので、ここで検討してみたいと思います。

まず問題の前立を見てみますと、中央の「愛」の字とその土台によって構成されていることが分かります。
さらにその土台の部分に注目するとそれが「雲」であることが分かりますが、これと同じ「雲」の土台を使った前立が「伝:上杉景勝(うえすぎかげかつ)」や「伝:上杉憲政(うえすぎのりまさ)」の甲冑にも見られます。
この2領ではいずれも土台の「雲」の上に神仏が乗っている点、また両方とも上杉家に縁(ゆかり)と言われている甲冑である点から考えて、兼続の場合も「雲」の上の「愛」は神仏を表すものと見るのが自然ではないでしょうか。

従ってよく言われる「愛民(あいみん=民を愛す)」の「愛」のように、我々が現代使うところの「愛(あい=LOVE)」の意味ではないと思います。
個人的にはその時代に「愛(あい=LOVE)」という概念はまだなかったのではないか、また仮にあったとしても「愛」の字を充てることはしなかったのではないかと思います。

では「愛」の字が表す神仏とは何でしょうか。
「愛」が表す神仏としては、

 @:「愛宕権現
 A:「愛染明王

が思いつきますが、私は下記の理由から「愛宕権現」の方がより適切ではないかと思います。

 @:戦勝の神として武将の信仰が厚かったこと。
 A:特に東北地方で信仰が盛んだったこと。
 B:他にも前立に使われている例があること。
 C:「雲」に乗っていること。

 @:愛宕権現は「勝軍地蔵」とされ、戦国武将の信仰が厚かったようです。
   明智光秀(あけちみつひで)が「本能寺の変」の直前に参拝したり、
   徳川家康(とくがわいえやす)なども領地を寄進しています。
 A:兼続が仕えた上杉氏の領地である東北地方では、それ以前より
   最上氏の愛宕権現信仰が厚かった影響で特に盛んであったようです。
 B:前出の「伝:上杉憲政(うえすぎのりまさ)」の前立、同じ東北の伊達家臣
   「伝:片倉重綱(かたくらしげつな)」の前立や旗指物などにも愛宕権現
   が使われています。
   また直江兼続(なおえかねつぐ)所用の伝来を持つ別の甲冑の前立には
   「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」を表す梵字が使われているのですが、この
   「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」も愛宕権現の生まれ変わりとされる
   仏だそうです。
 C:これは本当に個人的な意見ですが、神仏が(愛染)明王だとすると土台は
   「雲」よりも「火炎」の方が良いのではないでしょうか。

とはいえ愛染明王も敵を調伏(ちょうぶく)する神として特に鎌倉時代には盛んに信仰され、片倉氏と同じ伊達家中の遺物に愛染明王旗指物が残されています

(追記)
2017年11月に「刀剣・兜で知る戦国武将40話」と言う書籍が刊行されましたが、その中に「仏教の世界では普賢菩薩(ふげんぼさつ)と愛染明王は同一視されている」と書かれていました。
これは私も勉強不足で知りませんでしたが、そうなると愛宕権現愛染明王は普賢菩薩(ふげんぼさつ)を介して同じ神様であるということになります。
また話は変わりますが、鳥取の渡辺美術館にある天谷山形兜の正面の一間(いっけん)にも、確かこれと似たような書体の「愛」の文字が刻まれていたと記憶しています。

(初稿2005年1月10日、2017年11月24日追記)





● 箙(えびら)からの矢の抜き方

某食品玩具のフィギュアでから矢を抜くのに右手を右肩にまわし、右肩越しに矢を抜こうとしている姿が造形されていましたが、このように右肩越しに矢を抜く作法は下記の理由からも間違いであると思います。

 @:右腰にを付けた場合、つかむべき矢の端は左肩の後に来てしまう。
 A:動くから矢をつかむのは難しい。
 B:矢を取るのに兜のシコロが邪魔になる。
 C:矢を抜く時にを傷付ける。

従って矢を抜く時には右手を右腰に持って行き、方立からに近い部分をつかんでそのまま右腕の下を通して前に抜きます。
そのあと矢は弓と一緒に左手で中ほどを持ち、離した右手で矢の後ろを持ち直して前に送り番(つが)えます。

馬に乗って走りながら的(まと)を射る、日本古来の流鏑馬(やぶさめ)の様子を見てもこのような作法でから矢を抜き、番(つが)えています。

(追記)
参考までに、2016年10月に「サムライの筋肉が疼(うず)く スポーツ流鏑馬(やぶさめ)入門」と言う書籍が刊行され、そちらでも下から抜く方法が確認できます。

(初稿2005年2月20日、2016年10月24日追記)





● 武田信玄(たけだしんげん)と「諏訪法性(すわほっしょう)」

武田信玄(たけだしんげん)といえば誰しも袈裟を着て床机に腰掛け、金の獅噛を付けた見事な白熊の兜をかぶった姿を想像されるかと思います。
ではこの白熊の兜が有名な「諏訪法性(すわほっしょう)」なのでしょうか。

「諏訪法性(すわほっしょう)」について私もいろいろと調べてみましたが、どうも我々が想像する白熊の兜は江戸時代に書かれた信玄像や、歌舞伎や浄瑠璃で演じられる「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」の八重垣姫(やえがきひめ)が手にする兜の影響によるものと思われます。

現在、信玄所用と言われる兜で私が存じているのは、

 @:土井家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 A:相模寒川神社 信玄奉納兜
 B:諏訪大社上社本宮「伝:諏訪法性の兜」
 C:戸沢家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 D:諏訪湖博物館「伝:諏訪法性の兜」
 E:頼岳寺「伝:諏訪法性の兜」
 F:高野山持明院 信玄兜
 G:南部家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 H:長岳寺「伝:信玄兜の前立」
 I:和淵武田家「諏訪法性之兜」

ですが、A・F・Hは特に「諏訪法性(すわほっしょう)」とは言われていないようです。
Bは見たことがありませんが多くの場合共通しているのは、

 イ:明珍信家(みょうちんのぶいえ)作とされる筋兜である。
 ロ:筋兜の各筋に神仏の名前が書かれている。
 ハ:諏訪明神(すわみょうじん)に関係する立物が付いている。

ということくらいでしょうか。

1572年の三方ヶ原(みかたがはら)合戦で討ち取られた徳川方の武将の兜に付いていたヤクの毛を、武田勝頼(たけだかつより)が非常に珍しがって家臣から取り上げてしまったと言われているようですから、父である信玄が白熊の兜をかぶっていた可能性は低い、と甲冑研究家の山上八郎氏も述べられています。

また藤本正行氏の著書「鎧をまとう人々」(吉川弘文館)で、東京浄真寺蔵の武者絵に描かれ、これまで吉良頼康(きらよりやす)だと言われてきた人物こそ武田逍遥軒(たけだしょうようけん)の手によって描かれた兄:信玄の像であると指摘されております。

この武者絵自体は江戸時代に原本を複製(ふくせい=コピー)した物のようですが、その絵には三鍬形前立を付けた金覆輪筋兜が書かれています。
この兜には白熊は付いていません。
あるいはこれが「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜なのかもしれません。

なお「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜は1575年の長篠(ながしの)合戦に武田軍が負けて逃げ帰る途中、家臣の初鹿野伝衛門(はじかのでんえもん)が勝頼の許しを得て破棄したとも、棄てられていたのをこれも武田家家臣の小山田弥助(おやまだやすけ)なる人物が拾い上げて甲府(こうふ)に持ち帰ったとも伝えられているようです。

(追記)
「I」として和淵武田家にも「諏訪法性之兜」が伝わっていると教えて頂きました。
三鍬形前立を付けた烏帽子形兜で、明珍の名前と久寿二年(1155年)と言う年代が記されているようです。
ただ現時点の研究ではその時代に烏帽子形兜が存在していたと考えるのは難があると思われます。
一度実物を拝見してみたいです。

(原文は2003年11月20日「近世こもんじょ館」に投稿、2005年2月24日加筆修正、2018年9月27日「I」追記)





● 喉輪(のどわ)の着け方

喉輪は本来、脇曳と同じようにの内側に着けるのが正しい、もしくは内側に着けても良いのではないか、という掲示板でのご質問について調べた結果を書き留めておきたいと思います。

の内側に喉輪を着けている例としては、

 @:細川澄元(ほそかわすみもと)画像(1507年、永青文庫蔵)
 A:胴丸着用手順(出典は不明、「すぐわかる日本の甲冑・武具」に掲載)
 B:甲冑着用手順書(1801年、書籍名不明)
 C:伝:足利尊氏(あしかがたかうじ)小具足出装画像(年代不明、長母寺蔵)

などがあります。

Cの小具足出装は、そこに兜とを着ければ完全武装となる状態のことですから、その状態で喉輪を着けているのはの内側に喉輪を着けるからで、もしの外側に喉輪を着けるのだとすると、この時点(を着る前の段階)で喉輪を着けているのは不自然だと思われます。

一方、の外側に喉輪を着けている例としては、

 D:大内義興(おおうちよしおき)画像(年代不明、山口県立山口博物館蔵)
 E:足利尊氏(あしかがたかうじ)画像(年代不明、神奈川県立歴史博物館蔵)
 F:伝:吉良頼康(きらよりやす)画像模本(もほん)(年代不明、浄真寺蔵)
 G:斎藤正義(さいとうまさよし)画像(1539年、浄音寺蔵)

などがあります。

結果としては内側・外側いずれの場合も見受けられましたが、個人的には喉輪が胸元の隙間を守るためのものだとすると、めくれ上がったりずれたりする可能性があるの外側に着けるよりは、の内側に着けた方が良いのではないかと感じます。

なお「出典・書籍名・年代不明」と書いてあるものは、私の持っている資料からでは情報が得られなかったという意味です。

(2005年9月23日)





● 円に心

東京国立博物館所蔵の甲冑()のの背中には、「丸に心」の印(しるし)が大きく描(えが)かれています。

家紋(かもん)か合印か、あるいは所有者の苗字かもしれないと思って調べてみたのですが全く手がかりがありません。
ある時ふと南北朝時代に播磨(はりま=兵庫県)の守護大名であった赤松則村(あかまつのりむら)の法名(ほうみょう=仏教徒としての名前)である「円心(えんしん)」を見て、この背中の印(しるし)も「に心」と読むのではないかと思いつきました。

そう思って「円心(えんしん)」の意味を調べてみますと、「完全な涅槃(ねはん=さとり)を求める心」と言う意味があることが分かりました。

もしかしたら「戦ゆえに理由なく相手を倒さなければならない」事に対する何らかの思いのようなものが込められた印(しるし)なのかもしれないと、勝手に想像してみました。

ちなみに赤松則村(あかまつのりむら)がなぜ法名(ほうみょう=仏教徒としての名前)を「円心(えんしん)」としたのかについても調べてみたのですが分かりませんでした。

この甲冑の印(しるし)の本当の意味について、もしご存じの方がいたら教えて下さい。

(掲示板2005年7月17日→2012年11月8日随想にまとめ、2018年9月27日一部修正)





● 如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)

「如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)」と恐れられたと言われるほど有名な黒田孝高(くろだよしたか)の合子形兜ですが、現在この兜は岩手県の盛岡中央公民館に保管されています。
なお「如水(じょすい)」とは黒田孝高(くろだよしたか)の法名(ほうみょう=仏教徒としての名前)です。

現在、福岡市博物館所蔵の甲冑(52)に添えられている合子形兜は、三代藩主・黒田光之(くろだみつゆき)が江戸時代に作らせた複製(ふくせい=コピー)の兜です。
しかしながら正確な複製(ふくせい=コピー)ではなく、本物の合子形兜銀白檀塗割ジコロが付いた兜であるのに対し、朱漆塗で一般的なシコロが付いた兜となっています。

近年、黒田孝高(くろだよしたか)がテレビドラマ化されましたが、その人気にあやかる書籍・ネットなどのメディアやご当地キャラクターが、この黒田光之(くろだみつゆき)が作らせた新しい兜の方を「如水(じょすい)の兜」のように扱っており、多くの人が誤って認識してしまっている可能性が高いのは残念なことだと思います。

本物の兜は外鉢高26.2cm、外鉢前後径27.8cm、重量1.7kg、六枚張り椎実形兜の内鉢(うちばち)の上に、薄い鉄で出来た椀形(わんがた)の外鉢(そとばち)を被せて銀白檀塗とし、シコロ黒漆板札三段の割ジコロを白と萌黄啄木組の糸で素懸威にしてありますが、もともとは茶糸(ちゃいと)だったようです。

黒田孝高(くろだよしたか)は死の間際に重臣の栗山利安(くりやまとしやす)にこの兜を贈り、栗山利安(くりやまとしやす)の子である栗山利章(くりやまとしあきら)が、黒田家のお家騒動の責任を負って盛岡藩(もりおかはん)へ預けられた時にこの兜を持参したため、その地に伝えられることとなりました。

なお盛岡藩(もりおかはん)の史料である「篤焉家訓(とくえんかくん) 八巻」には、

「『この兜はもともと赤松則村(あかまつのりむら)の物で、その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から黒田孝高(くろだよしたか)に贈られた物だ』と栗山利安(くりやまとしやす)が記している」

と書かれています。

しかしこれとはまた別に、

「黒田孝高(くろだよしたか)の妻・光姫(てるひめ)の父である櫛橋伊定(くしはしこれさだ)から、婚約祝いとして贈られた兜をもとに制作した物だ」

とする説もあるようです。

今回はたまたま合子形兜が二つあることについてご質問をいただいたのでこのテーマを取り上げたのですが、先の「円に心」と今回と、偶然にも赤松則村(あかまつのりむら)関連の話題が続いたのは何かの縁でしょうか。

(初稿2013年1月11日、2014年1月15日加筆修正)





● 猿面兜(えんめんかぶと)

出石神社蔵の甲冑(29)に添えられている猿面兜(えんめんかぶと)は、変わり兜の中でもその奇抜(きばつ)さにおいて群(ぐん)を抜いていると思います。

この兜について某歴史雑誌のホームページに掲載されている紹介文の中に「当時、仙石家中には猿面の兜を着用した剛(ごう)の者が2人おり、大猿小猿と呼ばれて敵方に恐れられていた」とあるのを見て、もう一つの猿面兜(えんめんかぶと)とはどのような物か知りたいと思い調べてみることにしました。

先ず「大猿小猿と呼ばれ」の記述がどこに書かれているのか調べてみようと雑誌の出版社にメールで問い合わせてみたのですが回答は頂けず、掲示板(今はプロバイダのサービスが終了)の方で情報を募集してみたところ、いくつかの書籍を教えて頂くことができました。

手持ちの資料も含め、「大猿小猿」について書いてある一番古い書籍は掲示板で教えて頂いた昭和48年の「歴史読本」でしたが、そちらも「仙石家には猿面の兜を着用した剛(ごう)の者が二人おり、大猿小猿と呼ばれた。こちら(出石神社蔵の兜)は小猿の方である。」と書かれてはいるものの、その出典がどこか、大猿の兜はどこにあるのかについては、やはり触れられておりませんでした。

そんな中、東郷隆氏の著書「本朝甲冑奇談(ほんちょうかっちゅうきだん)」を紹介して頂いたので読んでみたところ、東郷氏も「大猿小猿」について調べられたことがあり、その結果が記されておりました。
それによると仙石家の資料である「改撰仙石家譜」の中に、

「谷津主水は大阪の陣に猿猴(えんこう)の甲冑を着て参戦したと言われている。人々は『谷津の小猿』と呼んだと言う。今の谷津助太夫の先祖である。」

と書かれており、「大猿」についての記述はどこにも見つからないものの、同じく大阪の陣に参戦した本間左近と言う人物について、

「熊の皮で包んだ甲冑を着ていたので、人々は『本間の大熊』と呼んだと言う。今の本間家は皆この人の末裔(まつえい)である。」

との記述があることから、「『本間の大熊』に対する『谷津の小猿』と言うことではないか」と述べられております。

「大猿小猿」がセットで有名であったなら、「改撰仙石家譜」の中で「小猿」だけが書かれているのも腑(ふ)に落ちないので、個人的には今のところ東郷氏の見解に納得するところですが、もし「大猿」の情報をお持ちの方がおられたら是非、教えて頂きたいと思います。

(初稿2015年3月9日、2018年6月20日加筆修正)





● 半馬面(はんばめん)

馬の面頬とも言える馬面の中で、馬の額(ひたい)と顔の側面のみを覆う小型のものを「半馬面(はんばめん)」と言います。

一般的に「半馬面(はんばめん)」は額(ひたい)部分を覆う板と、その板の両側に左右対称に連結されて顔の両側面を覆う「L」字型のような板の計3枚によって構成されています。

その左右対称に連結された「L」字型の板の向きについて気になっている点があります。

「半馬面(はんばめん)」のフィギュアを自作した時の記事の中でも触れましたが、東京都の遊就館(ゆうしゅうかん)が所蔵する「半馬面(はんばめん)」や、石川県の加賀本多博物館が所蔵する「半馬面(はんばめん)」の画像、または「図録 日本の甲冑武具事典」など多くの書籍に掲載されている「半馬面(はんばめん)」のイラストでは、額(ひたい)を覆(おお)う中央の板の左右に「L」字型の板が馬の後方に向かって突き出すような方向で取り付けられています。

馬の顔を正面から見た場合、側面の板を「」・額(ひたい)を覆う板を「」で表すと、「|_|」型に取り付いているイメージです。

これだと額(ひたい)は守れますが顔の側面は板が後ろに出るため守れません。
一方、「The Jean Saporta Collection」・「The Ann and Gabriel Barbier-mueller Collection」が所蔵している「半馬面(はんばめん)」は「L」字型の板が馬の顎(あご)に沿うような形で馬の口元(くちもと)に向かって取り付けられています。

馬の顔を正面から見た場合、先程と同じように側面の板を「」・額(ひたい)を覆う板を「」で表(あらわ)すと、「| ̄|」型に取り付いており、これだとちょうど人間でいう半首のように顔を覆っているイメージで、額(ひたい)も顔の側面も守ることが出来ます。

「The Ann and Gabriel Barbier-mueller Collection」では「半馬面(はんばめん)」を馬の模型に取り付けた状態の画像が掲載されているのですが、それを見てもやはり半首式(「| ̄|」型)の取り付け方が正しいと思います。

(初稿2016年4月13日、2018年6月20日加筆修正)





● 犀頭兜(さいがしらかぶと)

松浦史料博物館蔵の甲冑(71)に添えられている犀頭兜ですが、これと良く似た兜が高知城歴史博物館に収蔵されています。
松浦史料博物館の兜には白熊後立が付いていますが高知城歴史博物館の兜には立物は無く、名称も兎耳形と呼ばれています。

双方は「垂(た)れた耳と額(ひたい)の一本角(いっぽんづの)、打眉」の意匠(いしょう=デザイン)が共通しているのと、甲冑に限らず兎(うさぎ)の意匠(いしょう=デザイン)は基本的に耳がピンと立っており曲(ま)がっているものはあまり無い印象がありますで、個人的には高知城歴史博物館の兜も犀頭兜ではないかと思い調べてみました。

高知城歴史博物館にお聞きしたところ、名称について確認出来る最も古い記録は明治20年頃に行われた調査で作られた台帳「御道具根居(おどうぐねずえ)」の記述で、そこには「兎耳形兜黒塗日根野錣六枚黒塗花色糸筋掛威前出シ銀四分一犀ノ角形」と書かれているようです。
「花色糸筋掛威(はないろいとすじかけおどし?)」がどのようなものかは詳細は分かりませんでしたが、少なくとも明治には耳は兎(うさぎ)・額(ひたい)の角(つの)は「犀ノ角(さいのつの)」と呼ばれていたようです。

額(ひたい)の角(つの)は取り外しが出来ないようですので、普通(ふつう)に考えると角(つの)がで耳が兎(うさぎ)と言う組み合わせは不自然な感じがします。
ただし明治以前も額(ひたい)の角(つの)を「犀ノ角(さいのつの)」と呼んでいたかどうかの記録は無いため、現時点では犀頭兜だと結論付けることは難しいと思います。

もし双方の兜鉢の内側に作者の銘(めい=サイン)があれば、今後調査して頂けたら面白いと思います。

(初稿2020年2月12日)





● 金花猫塗唐冠兜(きんかびょうぬりとうかんむりかぶと)

二本松藩(にほんまつはん)の藩主:丹羽家(にわけ)の菩提寺(ぼだいじ)として建てられた大隣寺(だいりんじ)に、丹羽長秀(にわながひで)・丹羽長重(にわながしげ)親子が着用したと伝わる唐冠兜があります。

その兜は「金花猫塗唐冠兜(きんかびょうぬりとうかんむりかぶと)」と呼ばれているのですが、この名称の「金花猫塗(きんかびょうぬり)」とはどういうものなのかずっと気になっていました。
残念ながら所蔵元にも二本松市の文化課にも、名称の由来については何も記録が無いとのことでしたので、個人的な見解を書いてみたいと思います。

「金花猫塗(きんかびょうぬり)」とは恐らく漆(うるし)の塗り方のことではないかと思いネットで検索してみたのですが、この兜以外には見つけることができませんでした。
その代わり「金花猫(きんかびょう)」は「金華猫」とも書き、中国の浙江省(せっこうしょう)金華地方に伝わる猫の妖怪で、同地では「人に三年飼われた猫は怪(かい)をなすようになる」、という言い伝えがあることが分かりました。
「猫の妖怪の塗り」とは何か、以前掲示板(今はプロバイダのサービスが終了)の方で意見を募集してみたところ、「猫の毛で作った刷毛(はけ)で漆(うるし)を塗ったのでは」と言う意見を頂いたこともあったのですが、最近になって「金花猫(きんかびょう)」について改めてネットで調べてみたところ、この「金花猫(きんかびょう)」から影響を受けたと思われる日本の猫の妖怪「猫股(ねこまた)」について、「和漢三才図会」(1712年)に「毛の色が黄赤色(きあかいろ)」と伝えられていることが分かりました。

黄赤色(きあかいろ)とは文字通り「黄色と赤色の中間の色」となっていますが、その色味(いろみ)は「赤みの強い橙色(だいだいいろ)〜茶色っぽい赤色」のようですので、恐らく兜の色味(いろみ)がこの色に似ていることに因(ちな)んで付けられた名称ではないか、と言う個人的な結論に至りました。

朱漆塗」や「潤漆塗」とせず、なぜわざわざ「金花猫塗(きんかびょうぬり)」と呼んだのか、その理由までは分かりませんが、名称を付けた人物が妖怪通(ようかいつう)だったのか、あるいはその土地に何か猫に係る伝説のようなものが有った影響なのかも知れません。

なお前立獅噛を「金花猫(きんかびょう)」だと紹介する説もあるようですが、「塗(ぬり)」が付いていることからその説では不自然だと考えます。

もし由来やこの兜以外に「金花猫塗(きんかびょうぬり)」と呼ばれるものをご存知の方がいたら教えて下さい。

(初稿2020年12月1日)




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