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ここでは甲冑について良くご質問を頂く内容や、その他の様々な項目について私の個人的なメモ書き(基本的には過去の掲示板の内容)を載せています。

過去ログを参照して頂くのもなかなか大変ですのでこちらに別頁を設けさせて頂き、覚え書として抜粋した項目について整理してあります。

なお、内容はあくまでも私個人の見解ですのでご了承願います。

許可なく画像・文章を転載、複製、引用、加工する事は禁止します。



● 初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の兜

● 直江兼続(なおえかねつぐ)と「愛」前立

● 箙(えびら)からの矢の抜き方

● 武田信玄(たけだしんげん)と「諏訪法性(すわほっしょう)」

● 喉輪(のどわ)の着け方

● 円に心

● 如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)

● 猿面兜(えんめんかぶと)

● 半馬面(はんばめん)





● 初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の兜

以前はその存在自体が疑問視(ぎもんし)されていた山本菅助(やまもとかんすけ)ですが、武田信玄(たけだしんげん)が信濃(しなの=長野県)の豪族(ごうぞく)市河氏に送った手紙にその名前が登場するのをはじめとして、真下家所蔵文書(ましもけしょぞうもんじょ)の中の武田信玄(たけだしんげん)からの感状(かんじょう:戦での働きを褒める書状)や小山田虎満(おやまだとらみつ)と思われる人物の病気を見舞(みま)うよう指示(しじ)する文書(もんじょ)などが発見され、それなりの身分の武将として武田信玄(たけだしんげん)に仕(つか)えていたことがわかってきたようです。
また初代・山本菅助(やまもとかんすけ)が川中島の合戦(かわなかじまのかっせん)で戦死した後も、山本家の当主(とうしゅ)は代々「山本菅助」を名乗っていたそうです。

初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の兜と言うと、桃形兜に水牛脇立を思い出す方もいらっしゃるかもしれませんが、どうもこれは井上靖氏原作の映画「風林火山(ふうりんかざん)」で使われたのが始まりのようです。

私がこれまで目にした「伝:山本菅助」の兜は4点あります。

1点目は肉色塗にされた三枚張(さんまいばり)の頭形兜で、正面やや上方に付眉庇を備え、打眉見上皺打出し兜鉢の両側には耳を付けた変わり兜目下頬付き)です。

2点目は長野県立博物館に展示されていた投頭巾形兜で、頭巾(ずきん)には縦筋(たてすじ)が何本も入っていました。

3点目は2010年に某オークションにて「山本菅助所用 鮑貝形(あわびがいなり)兜」として紹介された兜で、文字通り鮑貝(あわびがい)の打出し二枚を左右で貼り合わせた兜で、それぞれの正面に金象眼梵字、後方には猪目と雲(くも)、眉庇に雲(くも)と二匹の龍(りゅう)、に雲(くも)をそれぞれ銀象眼してあります。

いずれの兜も「山本菅助の兜」とされていましたが、その根拠(こんきょ)は不明です。

4点目は山本家子孫の家に伝わったとされる具足の兜で、こちらは越中頭形兜で、眉庇金泥で「山本菅助晴貞(やまもとかんすけはるさだ)」と名前が書かれています。
しかしながら「晴貞(はるさだ)」と言う人物が誰だか良く分かっていないのと、具足が完成された当世具足の様式(ようしき)であることから、時代的に見て初代・山本菅助(やまもとかんすけ)の物である可能性は低いのではないかと考えられています。

実際にどのような兜をかぶっていたのかは、主君(しゅくん):武田信玄(たけだしんげん)の「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜と同じく謎のまま、と言ったところでしょうか。

(初稿2004年9月9日、2010年12月14日・2013年10月10日加筆修正)





● 直江兼続(なおえかねつぐ)と「愛」前立

直江兼続(なおえかねつぐ)の兜とされる「愛」字前立の意味についてよくご質問を頂きますので、ここで検討してみたいと思います。

まず問題の前立を見てみますと、中央の「愛」の字とその土台によって構成されていることが分かります。
さらにその土台の部分に注目するとそれが「雲」であることが分かりますが、これと同じ「雲」の土台を使った前立が「伝:上杉景勝(うえすぎかげかつ)」や「伝:上杉憲政(うえすぎのりまさ)」の甲冑にも見られます。
この2領ではいずれも土台の「雲」の上に神仏が乗っている点、また両方とも上杉家に縁(ゆかり)と言われている甲冑である点から考えて、兼続の場合も「雲」の上の「愛」は神仏を表すものと見るのが自然ではないでしょうか。

従ってよく言われる「愛民(あいみん=民を愛す)」の「愛」のように、我々が現代使うところの「愛(あい=LOVE)」の意味ではないと思います。
個人的にはその時代に「愛(あい=LOVE)」という概念(がいねん)はまだなかったのではないか、また仮にあったとしても「愛」の字を充てることはしなかったのではないかと思います。

では「愛」の字が表す神仏とは何でしょうか。
「愛」が表す神仏としては、

 @:「愛宕権現
 A:「愛染明王

が思いつきますが、私は下記の理由から「愛宕権現」の方がより適切(てきせつ)ではないかと思います。

 @:戦勝の神として武将の信仰が厚かったこと。
 A:特に東北地方で信仰が盛んだったこと。
 B:他にも前立に使われている例があること。
 C:「雲」に乗っていること。

 @:愛宕権現は「勝軍地蔵」とされ、戦国武将の信仰が厚かったようです。
   明智光秀(あけちみつひで)が「本能寺の変」の直前に参拝したり、
   徳川家康(とくがわいえやす)なども領地を寄進(きしん)しています。
 A:兼続が仕(つか)えた上杉氏の領地である東北地方では、それ以前より
   最上氏の愛宕権現信仰が厚かった影響で特に盛んであったようです。
 B:前出の「伝:上杉憲政(うえすぎのりまさ)」の前立、同じ東北の伊達家臣
   「伝:片倉重綱(かたくらしげつな)」の前立や旗指物などにも愛宕権現
   が使われています。
   また直江兼続(なおえかねつぐ)所用の伝来を持つ別の甲冑の前立には
   「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」を表す梵字が使われているのですが、この
   「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」も愛宕権現の生まれ変わりとされる仏だそうです。
 C:これは本当に個人的な意見ですが、神仏が(愛染)明王だとすると土台は「雲」
   よりも「火炎」の方が良いのではないでしょうか。

とはいえ愛染明王も敵を調伏(ちょうぶく)する神として特に鎌倉時代には盛んに信仰され、片倉氏と同じ伊達家中の遺物に愛染明王旗指物が残されていますし、愛染明王を写した変わり兜総面があるのも事実です。

(追記)
2017年11月に「刀剣・兜で知る戦国武将40話」と言う書籍が刊行(かんこう)されましたが、その中に「仏教の世界では普賢菩薩(ふげんぼさつ)と愛染明王は同一視(どういつし)されている」と書かれていました。
これは私も勉強不足で知りませんでしたが、そうなると愛宕権現愛染明王は普賢菩薩(ふげんぼさつ)を介(かい)して同じ神様であるということになります。
また話は変わりますが、鳥取の渡辺美術館にある天谷山形兜の正面の一間(いっけん)にも、確かこれと似たような書体(しょたい)の「愛」の文字が刻(きざ)まれていたと記憶しています。

(初稿2005年1月10日、2017年11月24日追記)





● 箙(えびら)からの矢の抜き方

某食品玩具のフィギュアでから矢を抜くのに右手を右肩にまわし、右肩越しに矢を抜こうとしている姿が造形(ぞうけい)されていましたが、このように右肩越しに矢を抜く作法(さほう)は下記の理由からも間違いであると思います。

 @:右腰にを付けた場合、つかむべき矢の端(はし)は左肩の後に来てしまう。
 A:動くから矢をつかむのは難しい。
 B:矢を取るのに兜のシコロが邪魔(じゃま)になる。
 C:矢を抜く時にを傷付ける。

従って矢を抜く時には右手を右腰に持って行き、方立からに近い部分をつかんでそのまま右腕の下を通して前に抜きます。
そのあと矢は弓と一緒に左手で中ほどを持ち、離した右手で矢の後ろを持ち直して前に送り番(つが)えます。

馬に乗って走りながら的(まと)を射る、日本古来の流鏑馬(やぶさめ)の様子を見てもこのような作法(さほう)でから矢を抜き、番(つが)えています。

(追記)
参考までに、2016年10月に「サムライの筋肉が疼(うず)く スポーツ流鏑馬(やぶさめ)入門」と言う書籍が刊行(かんこう)されました。

(初稿2005年2月20日、2016年10月24日追記)





● 武田信玄(たけだしんげん)と「諏訪法性(すわほっしょう)」

武田信玄(たけだしんげん)といえば誰しも袈裟(けさ)を着て床机に腰掛(こしか)け、金の獅噛を付けた見事な白熊の兜をかぶった姿を想像されるかと思います。
ではこの白熊の兜が有名な「諏訪法性(すわほっしょう)」なのでしょうか。

「諏訪法性(すわほっしょう)」について私もいろいろと調べてみましたが、どうも我々が想像する白熊の兜は江戸時代に書かれた信玄像や、歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)で演じられる「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」の八重垣姫(やえがきひめ)が手にする兜の影響(えいきょう)によるものと思われます。

現在、信玄所用と言われる兜で私が存じているのは、

 @:土井家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 A:相模寒川神社 信玄奉納兜
 B:諏訪大社上社本宮「伝:諏訪法性の兜」
 C:戸沢家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 D:諏訪湖博物館「伝:諏訪法性の兜」
 E:頼岳寺「伝:諏訪法性の兜」
 F:高野山持明院 信玄兜
 G:南部家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 H:長岳寺「伝:信玄兜の前立」
 I:和淵武田家「諏訪法性之兜」

ですが、A・F・Hは特に「諏訪法性(すわほっしょう)」とは言われていないようです。
BとCは見たことがありませんが、それ以外の兜で多くの場合共通しているのは、

 イ:明珍信家(みょうちんのぶいえ)作とされる筋兜である。
 ロ:筋兜の各筋に神仏の名前が書かれている。
 ハ:諏訪明神(すわみょうじん)に関係する立物が付いている。

ということくらいでしょうか。

1572年の三方ヶ原(みかたがはら)合戦で討ち取られた徳川方の武将の兜に付いていたヤクの毛を、武田勝頼(たけだかつより)が非常に珍しがって家臣から取り上げてしまったと言われているようですから、父である信玄が白熊の兜をかぶっていた可能性は低い、と甲冑研究家の山上八郎氏も述べられています。

また藤本正行氏はその著書「鎧をまとう人々」(吉川弘文館)で、東京浄真寺蔵の武者絵(むしゃえ)に描かれ、これまで吉良頼康(きらよりやす)だと言われてきた人物こそ武田逍遥軒(たけだしょうようけん)の手によって描かれた兄:信玄の像であると指摘されております。

この武者絵(むしゃえ)自体は江戸時代に原本(げんぽん)を複製(ふくせい=コピー)した物のようですが、その絵には三鍬形前立を付けた金覆輪筋兜が書かれています。
この兜には白熊は付いていません。
あるいはこれが「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜なのかもしれません。

なお「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜は1575年の長篠(ながしの)合戦に武田軍が負けて逃げ帰る途中、家臣の初鹿野伝衛門(はじかのでんえもん)が勝頼の許しを得て破棄(はき)したとも、棄(す)てられていたのをこれも武田家家臣の小山田弥助(おやまだやすけ)なる人物が拾い上げて甲府(こうふ)に持ち帰ったとも伝えられているようです。

(追記)
「I」として和淵武田家にも「諏訪法性之兜」が伝(つた)わっていると教えて頂きました。
三鍬形前立を付けた烏帽子形兜で、明珍の名前と久寿二年(1155年)と言う年代が記(しる)されているようです。
ただ現時点の研究ではその時代に烏帽子形兜が存在していたと考えるのは難しいと思われるのと、仮(かり)に兜鉢だけを再利用(さいりよう)したとしても、時代的には恐(おそ)らく星兜になろうかと思われますので、張懸の土台(どだい)として星兜を使った例(れい)を私はあまり知りません。
一度実物を拝見(はいけん)してみたいです。

(原文は2003年11月20日「近世こもんじょ館」に投稿、2005年2月24日加筆修正、2018年9月27日「I」追記)





● 喉輪(のどわ)の着け方

喉輪は本来(ほんらい)、脇曳と同じようにの内側に着けるのが正しい、もしくは内側に着けても良いのではないか、という掲示板でのご質問について調べた結果を書き留めておきたいと思います。

の内側に喉輪を着けている例としては、

 @:細川澄元(ほそかわすみもと)画像(1507年、永青文庫蔵)
 A:胴丸着用手順(出典は不明、「すぐわかる日本の甲冑・武具」に掲載)
 B:甲冑着用手順書(1801年、書籍名不明)
 C:伝:足利尊氏(あしかがたかうじ)小具足出装画像(年代不明、長母寺蔵)

などがあります。

Cの小具足出装は、そこに兜とを着ければ完全武装(かんぜんぶそう)になる状態のことですから、その状態で喉輪を着けているのはの内側に喉輪を着けるからで、もしの外側に喉輪を着けるのだとすると、この時点(を着る前の段階)で喉輪を着けているのは不自然(ふしぜん)だと思われます。

一方、の外側に喉輪を着けている例としては、

 D:大内義興(おおうちよしおき)画像(年代不明、山口県立山口博物館蔵)
 E:足利尊氏(あしかがたかうじ)画像(年代不明、神奈川県立歴史博物館蔵)
 F:伝:吉良頼康(きらよりやす)画像模本(もほん)(年代不明、浄真寺蔵)
 G:斎藤正義(さいとうまさよし)画像(1539年、浄音寺蔵)

などがあります。

結果としては内側・外側いずれの場合も見受(みう)けられましたが、個人的には喉輪が胸元(むなもと)の隙間(すきま)を守るためのものだとすると、めくれ上がったりずれたりする可能性があるの外側に着けるよりは、の内側に着けた方が良いのではないかと感じます。

なお「出典・書籍名・年代不明」と書いてあるものは、私の持っている資料からでは情報が得られなかったという意味です。

(2005年9月23日)





● 円に心

東京国立博物館所蔵の甲冑()のの背中には、「円に心」の印(しるし)が大きく描(えが)かれています。

今まで「に心」と思い、家紋(かもん)か合印か、あるいは苗字(みょうじ)かもしれないと思って調べてみたのですが全(まった)く手がかりがありません。
ある時ふと南北朝(なんぼくちょう)時代に播磨(はりま=兵庫県)の守護大名(しゅごだいみょう)であった赤松則村(あかまつのりむら)の法名(ほうみょう)である「円心(えんしん)」を見て、この背中の印(しるし)も「に心」と読むのではないかと思いつきました。

そう思って「円心(えんしん)」の意味を調べてみますと、「完全な涅槃(ねはん=さとり)を求める心」と言う意味があることが分かりました。

もしかしたら「前では敵(てき)を討(う)ち、背中で倒した相手を弔(とむら)う」と言うような気持ちが込(こ)められていたのかもしれないと、あくまでも勝手な想像ですが、個人的には何となく納得(なっとく)できるような気もしました。

赤松則村(あかまつのりむら)がなぜ法名(ほうみょう)を「円心(えんしん)」にしたのかその由来(ゆらい)も調べてみたのですが分かりませんでした。
ご存(ぞん)じの方がいたら教えて下さい。

また、この甲冑の「円に心」の印(しるし)の本当の意味(いみ)について、もしご存(ぞん)じの方がいたら教えて下さい。

(掲示板2005年7月17日→2012年11月8日随想にまとめ)





● 如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)

「如水(じょすい)の赤合子(あかごうす)」と恐れられたと言われるほど有名な黒田孝高(くろだよしたか)の合子形兜ですが、現在この兜は岩手県の盛岡中央公民館に保管(ほかん)されています。
なお「如水(じょすい)」とは黒田孝高(くろだよしたか)の法名(ほうみょう)です。

現在、福岡市博物館所蔵の甲冑(52)に添(そ)えられている合子形兜は、三代藩主・黒田光之(くろだみつゆき)が江戸時代に作らせた複製(ふくせい=コピー)の兜です。
しかしながら正確な複製(ふくせい=コピー)ではなく、本物の合子形兜銀白檀塗割ジコロが付いた兜であるのに対し、朱漆塗で一般的(いっぱんてき)なシコロが付いた兜となっています。

近年、黒田孝高(くろだよしたか)がテレビドラマ化されましたが、その人気にあやかる書籍・ネットなどのメディアやご当地キャラクターが、この黒田光之(くろだみつゆき)が作らせた新しい兜の方を「如水(じょすい)の兜」のように扱(あつか)っているため、多くの人が誤(あやま)って認識(にんしき)してしまっているのは残念なことだと思います。

本物の兜は外鉢高26.2cm、外鉢前後径27.8cm、重量1.7kg、六枚張り椎実形兜の内鉢(うちばち)の上に、薄(うす)い鉄で出来た椀形(わんがた)の外鉢(そとばち)を被(かぶ)せて銀白檀塗とし、シコロ黒漆板札三段の割ジコロを白と萌黄啄木組の糸で素懸威にしてありますが、もともとは茶糸(ちゃいと)だったようです。

黒田孝高(くろだよしたか)は死の間際(まぎわ)に重臣(じゅうしん)の栗山利安(くりやまとしやす)にこの兜を贈(おく)り、栗山利安(くりやまとしやす)の子である栗山利章(くりやまとしあきら)が、黒田家のお家騒動(おいえそうどう)の責任(せきにん)を負(お)って盛岡藩(もりおかはん)へ預(あず)けられた時にこの兜を持参(じさん)したため、その地に伝えられることとなりました。

なお盛岡藩(もりおかはん)の史料(しりょう)である「篤焉家訓(とくえんかくん) 八巻」には、

「『この兜はもともと赤松則村(あかまつのりむら)の物で、その後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から黒田孝高(くろだよしたか)に贈(おく)られた物だ』と栗山利安(くりやまとしやす)が記(しる)している」

と書かれています。

しかしこれとはまた別に、

「黒田孝高(くろだよしたか)の妻・光姫(てるひめ)の父である櫛橋伊定(くしはしこれさだ)から、婚約祝い(こんやくいわい)として贈(おく)られた兜をもとに制作(せいさく)した物だ」

とする説もあるようです。

今回はたまたま合子形兜が二つあることについてご質問をいただいたのでこのテーマを取り上げたのですが、先の「円に心」と今回と、偶然(ぐうぜん)にも赤松則村(あかまつのりむら)関連(かんれん)の随想(ずいそう)が続(つづ)いたのは何かの縁(えん)でしょうか。

(初稿2013年1月11日、2014年1月15日加筆修正)





● 猿面兜(えんめんかぶと)

出石神社蔵の甲冑(29)に添(そ)えられている猿面兜(えんめんかぶと)は、変わり兜の中でもその奇抜(きばつ)さにおいて群(ぐん)を抜いていると思います。

この兜について某歴史雑誌のホームページに掲載(けいさい)されている紹介文の中に「当時、仙石家中には猿面の兜を着用した剛(ごう)の者が2人おり、大猿小猿と呼ばれて敵方に恐れられていた」とあるのを見て、もう一つの猿面兜(えんめんかぶと)とはどのような物か知りたいと思い調べてみることにしました。

先ず「大猿小猿と呼ばれ」の記述がどこに書かれているのか調べてみようと雑誌の出版社にメールで問い合わせてみたのですが回答は頂けず、今はサービス停止していますが旧掲示板の方で情報を募(つの)ってみたところ、いくつかの書籍を教えて頂くことができました。

手持ちの資料も含め、「大猿小猿」について書いてある一番古い書籍は教えて頂いた昭和48年の「歴史読本」でしたが、そちらも「仙石家には猿面の兜を着用した剛(ごう)の者が二人おり、大猿小猿と呼ばれた。こちら(出石神社蔵の兜)は小猿の方である。」と書かれてはいるものの、その出典(しゅってん)がどこか、大猿の兜はどこにあるのかについては、やはり触(ふ)れられておりませんでした。

そんな中、東郷隆氏の著書「本朝甲冑奇談(ほんちょうかっちゅうきだん)」を紹介して頂いたので読んでみたところ、東郷氏も「大猿小猿」について調べられたことがあり、その結果が記されておりました。
それによると仙石家の資料である「改撰仙石家譜」の中に、

「谷津主水は大阪の陣に猿猴(えんこう)の甲冑を着て参戦したと言われている。人々は『谷津の小猿』と呼んだと言う。今の谷津助太夫の先祖である。」

と書かれており、「大猿」についての記述はどこにも見つからないものの、同じく大阪の陣に参戦した本間左近と言う人物について、

「熊の皮で包んだ甲冑を着ていたので、人々は『本間の大熊』と呼んだと言う。今の本間家は皆この人の末裔(まつえい)である。」

との記述があることから、「『本間の大熊』に対する『谷津の小猿』と言うことではないか」と述べられております。

「大猿小猿」がセットで有名であったなら、「改撰仙石家譜」の中で「小猿」だけが書かれているのも腑(ふ)に落ちないので、個人的には今のところ東郷氏の見解に納得(なっとく)するところですが、もし「大猿」の情報をお持ちの方がおられたら是非、教えて頂きたいと思います。

(初稿2015年3月9日、2018年6月20日加筆修正)





● 半馬面(はんばめん)

馬の面頬とも言える馬面の中で、馬の額(ひたい)と顔の側面(そくめん)のみを覆(おお)う小型のものを「半馬面(はんばめん)」と言います。

一般的(いっぱんてき)に「半馬面(はんばめん)」は額(ひたい)部分のみを覆(おお)う板と、その板の両側に左右対称(さゆうたいしょう)に連結(れんけつ)された「L」字型のような板の計3枚によって構成(こうせい)されています。

その左右対称(さゆうたいしょう)に連結(れんけつ)された「L」字型の板の向きについて気になっている点があります。

「半馬面(はんばめん)」のフィギュアを自作(じさく)した時の記事の中でも触(ふ)れましたが、東京都の遊就館(ゆうしゅうかん)が所蔵(しょぞう)する「半馬面(はんばめん)」や、石川県の加賀本多博物館が所蔵(しょぞう)する「半馬面(はんばめん)」の画像、または「図録 日本の甲冑武具事典」など多くの書籍(しょせき)に掲載(けいさい)されている「半馬面(はんばめん)」のイラストでは、額(ひたい)を覆(おお)う中央の板の左右に「L」字型の板が馬の後方に向かって突(つ)き出すような方向で取り付けられています。

馬の顔を正面から見た場合、側面の板を「」・額(ひたい)を(おお)う板を「」で表(あらわ)すと、「|_|」型に取り付いているイメージです。

これだと額(ひたい)は守れますが、顔の側面は守れません。
一方、「The Jean Saporta Collection」・「The Ann and Gabriel Barbier-mueller Collection」が所蔵(しょぞう)している「半馬面(はんばめん)」は「L」字型の板が馬の顎(あご)に沿(そ)うような形で馬の口元(くちもと)に向かって取り付けられています。

馬の顔を正面から見た場合、先程と同じように側面の板を「」・額(ひたい)を(おお)う板を「」で表(あらわ)すと、「| ̄|」型に取り付いており、これだとちょうど人間でいう半首のように顔を覆(おお)っているイメージで、額(ひたい)も顔の側面も守ることが出来ます。

「The Ann and Gabriel Barbier-mueller Collection」では「半馬面(はんばめん)」を馬の模型(もけい)に取り付けた状態(じょうたい)の画像が掲載(けいさい)されているのですが、それを見てもやはり半首式(「| ̄|」型)の取り付け方が正しいと思います。

(初稿2016年4月13日、2018年6月20日加筆修正)




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